シュルレアリスムが触れたすべてのものは積分された。生は、目覚めと眠りとの間の敷居が、時に洪水となって溢れる大量のイメージによって擦り減らされ、あらゆるものにおいて消滅してしまうところでのみ、生に値すると思われ、言語は、音とイメージとが幸運にも精密な自動記述で絡まりあって、「意味」というけちなものの余地を少しも残さなくなっているところでのみ、言語自体であると思われた。優先するのはイメージであり、言語である。 pp:197-198
意味より優先するだけではない。加えて「私」よりも優先する。夢は、世界の構造の中に組み込まれた個人性を、虫歯のようにぐらつかせてしまう。陶酔によるこの自我のぐらつきは、同時に、実り多い生きた経験であって、ほかでもなく陶酔の呪縛圏から、人々を脱出させることにもなった。……そしてこの経験は、夢とか、ハシ―シュや阿片の摂取の時間とかに限定されたものでは、全然ない。実際、「シュルレアレストの経験」のうちで僕らが知っているものは、宗教的エクスタシーもしくは麻薬のエクシタシーだけだ、と考えるとしたら、大いに間違っている。(因为兰波等人提出超现实主义的时候,目的之一便是反抗天主教主义。而且真正创造性地克服宗教启示的东西并非鸦片大麻之类。克服是在“世俗启示”之中,在唯物论的、人学的灵感之中完成的。鸦片大麻之类仅是通向这种“世俗启示”的预备教育而已。从世俗启示来看,超现实主义尚未抵达这样的高度。) pp:198-199
陶酔の力を革命のために獲得すること、このことを、シュルレアリスムのすべての本やすべての企ては、廻っている。シュルレアリスムの最も独自な課題はそれだ、といってよい。この課題を果たすためには、あらゆる革命的行為の中に――僕らが知っているように――陶酔の要素が生きている、ということでは十分ではない。この要素はアナーキズムの要素に等しい。だがアクセントを専らこの要素に置くならば、革命の方法的な規律ある準備は、練習とも前祝いとも付かぬ反端な実践のために、まったく蔭に追いやられてしまうだろう。加うるに、陶酔の本質はあまりにも安直に、非弁証法的に見られている。「驚きの状態にいる」画家や詩人の美学、不意を打たれた者の反応としての芸術という美学は、いくつかの点で、極めて不吉なロマンティックな偏見に捉われている。オカルトな、シュルレアリスム的な、幻覚的な資質や現象を真剣に研究しようとすれば、必ず、ロマンティックな頭脳などに及びもつかない複雑に絡み合った弁証法を、前提としなくてはならない。謎めいたものにおける謎めいた側面をパセティックに、ないしファナティックに強調することでは、先へ進めはしないのだ。むしろ僕らは、日常的なものを参入し難いものとして、かつ参入し難いものを日常的なものとして認識するような、弁証法的な光学の助けを借りて、秘密を日常の物の中に再発見する度合いだけ、秘密に参入する。pp:215-216
「陶酔の力を革命のために獲得すること」――これは、言い換えると、詩人の政治だろうか?「そんなものはうんざりだ。何よりくだらない!」ところで――あなた方がそういうのなら、それだけますます、文学論めく補説をすることで事態が実に明快になることは、あなた方の興味を引くだろう。217
もし、ブルジョワジーの知的な主導権を打倒し、プロレタリア大衆との接触を確保することが、革命的知識人の二重の課題であるとすれば、知識人はこの課題の後半には、ほとんど手も足も出ないままだったが、それというのも、これが静観的に遂行できるものとは違うからである。それなのに、少なからぬ知識人がこれまで相も変らぬ間違った仕方で、課題を提起しつづけ、プロレタリアートの詩人·作家·思想家·芸術家を呼び求め続けてきた。これに反してトロツキーはとうから――『文学と革命』において――プロレタリア芸術が成立するのは革命の勝利後でしかあり得ないことを、指摘しないわけにゆかなかった。事実肝要なのは、ブルジョワ出身の芸術家を「プロレタリア芸術」の巨匠に仕立てることなどではさらさらなくて、 彼を、彼の芸術活動を犠牲に供してでも、あのイメージ空間のなかの重要な場所で機能させることなのだ。そう、ひょっとしたら、彼の「芸術家としての経歴」の中断が、彼の活動の本質的な一部分をなすことになるのではなかろうか?pp:218-219
『暴力批判論 他十篇』ヴァルタ—·ベンヤミン著 野村修 編訳 岩波文庫 1994


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